2011年12月16日

雁木だより-9 護岸ぐるみ、各戸が建設

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 広島市内に現存する雁木は、いつ頃造られたのか。NPO法人雁木組では、雁木の成り立ちを調べ、文化的な価値を検証する取り組みを、専門家の協力を得て進めてきた。
 建造年代の特定は、石の種類や加工法、積み方、痕跡などを技術的な視点で調査し、写真・史料などを根拠に検証をする。原爆で多くの史料が失われた広島では、容易な作業ではない。それでも、京橋川の栄橋から京橋にかけての右岸側は、明治中頃以降に個人によって造られたらしいことが分かってきた。
 水辺の邸宅に生まれ、現在もこの地に住み続ける人がいる。今西正治さんは1917(大正6)年生まれ。「この辺りの護岸と雁木は各家が造りました。『うちの雁木』は祖父が造ったものです」。確かに、この区間の護岸は平積みや切込み矧(は)ぎの石積みなど、数十メートルごとに石の種類も工法も異なり、個々人が建造したことを裏付ける。裕福な家が別荘として屋敷を構えたそうだが、数度の大水害に耐えた護岸の建造には、受け継がれてきた知恵と技術だけでなく、それを支える資金力もあった。
 今西さんによると、邸宅を建てるには、まず護岸と雁木を造り、雁木から建築資材を荷揚げした。今春(こんぱる)流の師範だった今西家は、川沿いの「離れ」を能舞台として使うこともあった。
「明神祭りには舟屋さんを呼び、お弟子さんや芸者さんを招いて舟で見物にでかけました」。2件隣の桑本さんは戦前、桜の時期はお茶席を設けたり、親戚一同でお弁当を持って舟で花見をしたという。
雁木を通して豊かな暮らしが伺える。
 今西さん宅前の雁木に埋め込まれている土管は、前庭の池の水を川に流すためだった。石の表面の剥離は、護岸の上に建っていた離れが原爆で焼け、石が長時間高熱に曝(さら)された証しである。雁木の両袖の石の種類が異なるのにも理由がある。一つの雁木を2軒の家で共有し、その後、雁木は半分の幅になったためだそうだ。戦後、竹屋小学校と幟町小学校にプールができるまで、子供たちはこの雁木を降りて川で水浴をしていた。
 今西さんは少年時代、雁木や護岸をモルタルで補修するのが夏休みの仕事だったという。護岸は自邸の一部なのだろう。その庭と護岸は、今は公共の場所に整備され、自治体が管理をする。
 雁木は広島の豊かな水辺の暮らしを雄弁に語る。文化的な価値とは、地域の人々に愛されているかどうかが一つの重要な要素と聞く。市民の手で、この雁木を後世に残したい。
文:氏原睦子=NPO法人雁木組理事長 (2011年12月15日 毎日新聞「雁木だより」から)

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posted by gangidayori at 00:32| Comment(0) | 雁木だより