2011年11月28日

雁木だより-8 パッチワーク状の異なる石積み

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 古くから水運が盛んだった広島で、干満差の大きな河川ならではの船着き場として発達した「雁木」。
物流の拠点としての役割を持った公共的性格の雁木もあれば、河辺に面した各戸に設けられた私的な雁木もある。とりわけ個性的な雁木が現在も残るのが、京橋川の右岸側(現在の中区幟町から橋本町にかけての一帯)だ。どれも個性的で、どのようにしてここに現存するのか、人々や建物は暮らしの中で、どう雁木とかかわってきたのか。想像をかきたてる。
 この区間に残る護岸が整備されたのは、明治時代中頃以降のことになる。雁木は階段状の護岸として、同時に建造されている。江戸時代には、左岸(現在の南区京橋町かいわい)が、町人町として築かれ、水際まで家々が建ち並んでいたのに対し、右岸側はゴロゴロとした石と竹やぶのままだった。背後にある武家屋敷と水辺は、全く遮断されていたと考えられる。
 しかし、明治に入ると、藩が廃され、広島県・広島市へと移行すると、護岸の築堤を条件に、この地に邸宅を建てることが許された。個人で護岸を造るとは、よほど豊かな人々が屋敷を構えたのだろう。船上から護岸を眺めると、一目瞭然だ。かつての屋敷ごとに、異なる石積みがパッチワーク状に連なる。
 この連続する屋敷の一つ、幟町に育った高橋(旧姓沖田)澄江さんが、大手町で旅館を営んでいた祖父から聞いた話によると、沖田家は明治期にここに邸宅を構えたそうだ。現在、ホテルフレックスが建っている位置が邸宅の跡地で、河岸緑地として整備されている場所は、庭と「離れ」だった。河岸緑地には、その名残である大きな庭石が、ポツポツと残されている。
 個々の雁木を見ると、船を舫(もや)う鉄環が残されていたり、天井や裏木戸、排水溝など、人々が川に向き合っていた往時の証しを随所に見出せる。
 この水辺の文化を大切に守り、後世につなげていく取り組みとして、NPO法人雁木組が事務局の実行委員会は今月25日の夜、京橋から稲荷橋にかけての京橋川左岸で、「雁木クリスマス&水辺JAZZ」と題したイベントを企画している。それに先立つ19日には、石積みの隙間の草などを除去したり、一帯を清掃する保全活動を予定している(RCC文化センター前で午前9時から)。ぜひ参加されて、かつての水の都の暮らしに思いを馳(は)せていただきたい。
文:氏原睦子=NPO法人雁木組理事長 (2011年11月17日 毎日新聞「雁木だより」から)

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posted by gangidayori at 00:28| Comment(0) | 雁木だより
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